OKAWA DNA

冷間鍛造を用いた
ものづくりの可能性

丁寧な仕事が、やがて日本を代表する産業を支える力に。

1934年、東京都港区で創業した大川精螺工業。創業者・大川儀三郎による小さなねじ加工工場は、カメラやトランジスタ、テレビの軸受けなどの切削小物部品から歩みを始めました。その確かな品質と誠実なものづくりが信頼を呼び、やがて大手自動車メーカーのパートナーとして、スタッドボルトをはじめとした重要部品の製造を担うまでに成長しました。
当時、自動車産業はまだ黎明期。少量生産ながらも非常に厳しい品質基準が求められる中、私たちは一つひとつの仕事に真摯に向き合い続けました。その姿勢が評価され、自動車用の重要保安部品の開発・製造へと領域を広げていきます。
ものづくりへの情熱と探究心が、成長を続ける日本の自動車産業を支え、ともに歩んできた。それは、当社の誇りでもあります。

自動車産業の飛躍と、冷間鍛造技術の先駆者としての転機。

  • 1960年代、日本が高度経済成長を迎え、日本車はその高い品質と信頼性を武器に、世界市場での存在感を急速に高めていきました。
    その追い風の中、当社も大きな転機を迎えます。2代目社長・大川留雄が、当時の月商の5倍にものぼる高額な「パーツフォーマー」の導入を決断したのです。
    パーツフォーマーとは、金型内で常温の金属に高圧力を加え、塑性変形させる「冷間鍛造」の専用機。容易に手が出せない機械を他社に先駆けて取り入れ、研究と実践を重ねたことで、私たちは冷間鍛造のパイオニアとして技術を磨き、独自のノウハウを蓄積していきました。
    大きなリスクを恐れず挑戦したその精神は、今もなお当社のDNAとして受け継がれています。

ひらめきと情熱が生んだ、世界にひとつの成形技術。

  • 冷間鍛造の研究と挑戦を重ねてきた当社は、1998年、業界初となる「7段式パーツフォーマーによるブレーキホース継手金具の一体成形」に成功しました。
    きっかけは、ある技術者のひらめきでした。
    「この技術を応用すれば、今は別々に加工しているニップルも、一体で成形できるのではないか」——。その発想を起点に、数年にわたる研究と試作を経て、長年積み上げてきた技術とノウハウを結集し、日本で初めての実用化を実現しました。

成功を力に、挑戦を文化へ。

この革新的な技術によって、従来は複数工程を必要としていたブレーキホース継手金具の製造が一体化され、
生産工数の削減、コストダウン、材料歩留まりの向上など、多くのメリットを実現しました。
この成功体験が、私たちのものづくりの姿勢をより強固なものへと変えていきます。
以降も、革新的な機械への投資を惜しまず、スキルフルなエンジニアの育成に努め、新たな技術や製品の創出に取り組んできました。
高い好奇心と探究心を原動力に、ものづくりの技術と、その根底にある“楽しさ”を追い求める姿勢こそが、大川精螺工業のDNAです。